
<志真斗美恵 第23回(2026.5.25)・毎月第4月曜掲載>
●「河鍋暁斎の世界」展 (サントリー美術館)

河鍋暁斎は「きょうさい」と読むのであって「ぎょうさい」ではない。1870年までは「狂斎」と名乗っていた。同年、書画展で泥酔し、「不敬狂画」を描いたとして逮捕・投獄。放免されると、画号を同音で「暁斎」と改めた。
明治元年が1868年であるから、1831年に生まれで1889年に死亡した河鍋暁斎は、おおきな転形期を画家として生きたことになる。
展覧会は、肉筆画と版画の名品セレクションを挟んで、「けもの」「ひと」「おに」「かみ・ほとけ」と章分けされている。これらは互いに密接につながりながら暁斎の世界を構成している。
展覧会では、まず「墨合戦」(1871-89)と「書画会図」(1876-78頃)がある。両者とも縦長の大きなもので、大勢の人物が描かれ楽しい。
書画会は、同好者を集め作品を披露・制作する社交の場で、江戸中期から明治時代にかけて入場料を取って商業的イベントとして盛んに行われた。早描きだった暁斎は人気があり、「書画会図」では、客とやり取りする自分自身の姿も描いている。
「墨合戦」では、箒ほどの大きさの筆を持ち、動き回っている躍動的な動作の瞬間が活写され、暁斎の絵の典型を見ることができる。
チラシ1面で使われている「地獄太夫と一休」だが、1部が使われているために、狩野派の修行をした暁斎が、なまめかしい女を描いているだけに見えるのは残念だ。「地獄太夫と一休」は、室町時代の禅僧一休が「地獄」と名乗っている遊女を訪ねた様子を描いているのだが、一休は、皮も玄も張られていない三味線をひいている骸骨の頭の上で、両手を上げ、片足立ちで踊っている。地獄太夫の足元には小さな骸骨たちが幾人もいる。暁斎は骸骨をたびたび描いているが、彼は西洋の解剖学図を見て学んだという。禅僧一休が酒を飲み、地獄のような現世を呪う太夫と意気投合する様が見事に描かれている。
「百鬼夜行図屏風」は、3メートルを超える六曲一双の屏風で、さまざまな妖怪が描かれている。動物の顔で人間の足をもつ妖怪や空を飛ぶ妖怪などが闘っている。
暁斎の絵は「狂画」と言われる。「狂画」は、江戸時代から明治にかけて描かれた滑稽で風刺に富んだ絵の総称をいう。暁斎は「鳥獣戯画」を好んで見ていて、庶民の日常や当時の政治を、動物を使い擬人化し、コミカルに批判している。
庶民は蛙で描かれている。彼は、子どもの時から蛙を好み描いている。「蛙の学校」「蛙の射的場」、「蛙の人力車と蓮の電信柱」、「蛙の万歳」など枚挙にいとまがない。彼は、そのほかにも猫や鼠、烏や猿など、多くの動物を描いた。象は本物を何度も見にき、猿を飼っていた。
鐘馗も好んで描いているが、鐘馗が、子の守り神であるだけではない。鐘馗が虐げている鬼は、権力者の抑圧に悩まされている庶民であり、暁斎の鐘馗の描き方は一面的でない。(「鬼を蹴り上げる鐘馗」)
「天狗たちの書画展観会」で、自慢のコレクションを持ち寄っている男たちは、天狗より長い鼻をしている。鼻をひと結びしたものもいて、彼が風刺している書画展の様子がよくわかる。
「放屁合戦図」(1881)、「放屁図」(1886頃)など、屁を放つ図が多くある。屁の勢いは、目に見えるように描かれ、「放屁合戦図」では、芋を食べ屁の準備する姿、米俵を屁で飛ばす様子もみられる。奇想天外な放屁争いであるが、室町時代から絵巻になっていて、「鳥獣戯画」の鳥羽僧正がかいたとする極め書きもあり、暁斎にとって特別な意味があるようだ。
暁斎のつけていた「絵日記」も見ることができる。彼は明治初期から晩年まで絵日記を毎日付けていて、家族や弟子、版元や注文主など、天気や金の出入り、名刺まで張られている。コンドルの家での土曜の稽古の様子や制作中作品を見せている所などを見ることができる。
社会を揶揄した暁斎の系譜は、今どのように引き継がれているのか? 日本画には引き継がれていないようだ。マンガのなかに生きているのだろうか。
*「河鍋暁斎の世界」展 サントリー美術館=6月21日まで 神戸市立博物館=7月11日~9月3日 静岡県立美術館=10月10日~12月6日

