永田浩三(ジャーナリスト・武蔵大学名誉教授)

 今年のカンヌ映画祭。この原稿にとりかかろうとした時、最優秀女優賞に岡本多緒さんが選ばれたニュースが飛び込んできた。ちなみに、去年のパルムドールを受賞したのが、これから紹介する『シンプルアクシデント』。監督はイランのジャファル・パナヒさん。1960年生まれ。パナヒさんが師事したのは、『友だちのうちはどこ?』『そして人生はつづく』などの名作で日本でも人気が高いアッバス・キアロスタミ監督(1940~2016)だ。パナヒ監督は、イランの社会問題に正面から向き合う作品で知られ、治安当局から数々の弾圧を受けてきた。拘束され、自宅軟禁を強制され、映画の製作・脚本の執筆、国内外のメディアへの対応、海外への渡航を禁じられた。

 そんな中での今回の『シンプルアクシデント』の日本公開。映画ファンの中で、注目を集めないはずはない。期待にたがわず、衝撃的な作品に仕上がっている。わたしは細部を覚えていたくて二度観た。今後また何度も観ることだろう。映画館は満員ですごい熱い雰囲気。パンフレットもすぐに売り切れ、増刷がはかられた。

 映画のテーマはパナヒ監督自身が経験した逮捕と拷問、収監生活。それらの不当な暴力が残した人生の傷の深さだ。主人公・ワヒドが働く町工場に、ある夜、自動車の修理を頼みに、家族連れの男がやってくる。真っ暗な道で野良犬をひき殺してしまい故障したのだった。客が義足を引きずる音が工場に響く。そこでワヒドの忌まわしい記憶がよみがえる。この音は、自分の尊厳を奪い、後遺症を与えたあの看守・エグバルではないか。

 翌日ワヒドは男を拉致し、砂漠に穴を掘り、生き埋めにしようとする。だが、男は人違いだ、自分はエグバルではないと叫ぶ。ワヒドが捕らわれの身にあった時、目隠しをされていたため、エグバルの顔を見ていないのだった。

 復讐を思いとどまったワヒドは、同じように無実の罪で拷問を受けた仲間たちを訪ね歩く。ワゴン車の助手席、後ろの荷台に次々と人が増えていく。映画は突然、苦みを含んだロードムービーとして展開していく。書店員のサラルは体制に抗う筋金入りの知識人の風貌。しかし、協力はできないと断る。写真家のシヴァは非暴力主義者で芯が強い。シヴァの元恋人のハミドは暴言を吐き、すぐ手が出てしまう。翌日に結婚式を控えた花嫁のゴリは、取り調べの際に受けた性暴力によってPTSDを抱えている。彼ら・彼女らはみな、男がエグバルはどうか確証が持てないのだった。

 ワヒドが運転する旅の中には、結婚あり、出産あり。そのたびに「おめでとう」の言葉がふりそそぎ、お祝いの菓子は振舞われ、お金がやりとりされる。深刻な復讐劇のはずなのに、イラン社会の温かさと優しさが覗く素敵な場面があふれているのだ。

 さて、捕まえた男は、本当にエグバルなのか。映画の最後は映画史に残るほどの、セリフの応酬が続く。ただただ圧巻。そしてラストの足音に観客はまたどんでん返しを喰らうのだった。

 昨夜は、新宿駅南口で、イランへの攻撃やめろ!の街頭集会に参加した。日本で暮らす多くのイラン人が声を上げ、わたしもNPT再検討会議におけるイラン差別について少し話した。戦争というか、イランへの理不尽な攻撃が一刻も早く止みますように。その上で、イラン社会が直面する深刻な課題が、イランの民衆の手で解決されていきますように。

★『シンプル・アクシデント 偶然』公式サイト⇒https://simpleaccident.com