根岸恵子(レイバーネット・フィールドワーククラブ)
4月29日、レイバーネットは三里塚フィールドワークを行った。あいにく曇天の寒空だったが、総勢23人の参加者は三里塚の熱い闘争の歴史を感じることができただろう。
三里塚の闘争は1966年から始まる。突然の空港建設の話に、地域の農民たちは立ち上がった。その闘争は今でも続いている。
私たちはまず、「空と大地の歴史館」を訪問した。ここは成田空港株式会社(NAA)が運営している。成田空港が開港するまでの抵抗運動から建設中のC滑走路やB滑走路の延伸のことまで展示している。闘争のヘルメットが並んでいて生々しい。どこで手に入れたか、『腹腹時計』まで置いてある。また開発によって多くの寺社が無くなる予定で地域の祭事や神事も失われていく。そんな特別展までもある。短い時間だったが、三里塚闘争の全貌が何となくわかった。


次に訪れたのは三里塚物産。らっきょう工場と呼ばれ、無農薬の農産物やらっきょうの漬物を販売している。三里塚歴史考証室の平野靖識さんの話を聞いた。平野さんは大学卒業後、三里塚に移り住んだ。闘争に参加し、平野さんがたどってきた三里塚の歴史を聞いた。胸にずっしりとくる。
その後私たちは大木よねさんが眠る共同墓地へ。墓地は林の中にひっそりとして、よねさんは静かに眠っている。そこが空港に隣接しているとは感じられないほどに。



それから木の根ペンションで昼食。ここには1967年住民たちによって建てられた団結小屋があった。それが89年に木の根ペンションとなった。野外にはプールやライブのための舞台、空港を見渡せる展望台がある。



横堀鉄塔は横風用滑走路予定地の真ん中に立っている。案山子亭は隣接する団結小屋だ。
鉄塔の下には沖縄の彫刻家金城実さん制作の「抵抗する農民」像がある。近くに横堀農業研修センターというプレハブ小屋がある。周囲を竹林で覆われている。もともとは反対同盟の合宿所だった。NAAがこの土地の明け渡しを求めて提訴し、現在も抗争中。7月3日に東京高裁で控訴審がある。


それから私たちは中郷高台に上り、現在進行中の建設現場を一望した。あまりに広大な山里が開発されている。その中で田んぼを必死に残している農家もいる。


つづいて回ったのが731関係の場所だ。C滑走路の予定地には731部隊長だった石井四郎の生家やゆかりの場所がたくさんある。
まず春日神社にある忠魂碑を見に行く。文字を揮毫(きごう)したのは、石井四郎だ。戦後1957年に作られた碑で、戦後に何故と思ったが、町一番の出世頭で尊敬されているという理由で書いたらしい。地域では英雄だったかもしれないが、おもに中国人捕虜を3000人以上も生体実験によって殺した張本人。その後私たちは加茂の石井四郎の生家跡に行った。その生家はもはやなく荒地になっていた。石井家の墓地もまた藪の中に放置されていた。空港開発のために墓を移動する旨の立て看板があるが、もはや誰も名乗り出ないのだろう。

最後に行ったのが芝山町東小学校の中にある二宮金次郎像だ。小学校は今や廃校になり、隣接して老人ホームがある。二宮金次郎像の台座には石井四郎揮毫の「報徳」の文字がある。像の裏には寄贈した人の名前が羅列してあるが、トップに石井四郎の兄の石井剛男の名がある。731部隊が平房に移る前、石井は背陰河で研究を行っていたが、そこで戦死した田下五郎、田下丑之助の名前もある。全員が石井四郎の中国での細菌兵器開発に携わった人々だろう。またこの像には、昭和52(1977)年補修の文字もある。石井四郎の名前と有志一同建立という文字の前の数文字が削られている。
何故文字を削ったか、歴史の抹殺である。空港の加茂部落破壊は、歴史上もっとも凄惨な人体実験を行った細菌戦部隊731部隊の歴史の抹殺につながらないだろうか。
タイムマシンに乗ったような感覚で闘争の現場や団結小屋、更地になった石井の家を回った。しかし私たちは眠ってきたわけではなく闘ってきたのだ。
かつて農村だった美しい里山をもつこの地はまた、巨大な空港が飲み込まれようとしている。これからも闘い続けなくてはという思いにさせられたフィールドワークだった。


