
<評者:根岸恵子>
毎木曜掲載・第426回(2026.3.12)
『密林の語り部』 バルガス=リョサ 作、西村英一郎 訳、岩波文庫

現代人が天変地異を神の怒りと思わなくなったのは、いつのことか。神の怒りとは、戒めであり、躾であった。今、神を恐れぬ人間は、どんな蛮行でも平気で行うことができる。多くの民は良識という当たり前の感情を持つが、蒙昧に残虐に更ける輩は自ら己の行動を客観視できないで、それを正義と思うものだ。しかしそういう傾向は、表裏一体で人間というものはまさにそういう生き物であるのだ。
今年1月3日に、まだ年明けの祝いで人々が浮かれているときに、ベネズエラには爆弾が飛んできた。その怒りが収まらない2月末にはイランに爆弾を落とした。そのようなことをする驕った国はソドムとゴモラのように燃えてしまえばよい。だが、その神話を持つユダヤ教徒には、宗教的束縛から逃れられないまま、もはや神を恐れてはいまい。悪行を働くものは蟲にされるか、石にされてもいいはずなのだ。しかし彼らは神の天罰などもはや起こりえないと信じているのだ。
キリスト教福音派に支持されるトランプだが、彼らの偏狭な思想の中にもはや神ではない何か利己的な教えが浸透し、トランプの行動をすべて是認している。神はもはやいない。
宗教とは何か。昔アイヌの友人が、祖先が残した広大な土地の固定資産税が払えなくて困っていた。そこはアイヌの古いチセのあるアイヌの生き方を継承しているところだったので、宗教法人にしたらどうかとアドバイスしたことがあった。毎年アイヌの信仰に沿った祭事や葬式をそこで行ったりしていたから、立派な宗教である。しかし、役所が言うには、それは文化であり宗教でないという。なぜか。カムイ信仰は今でもアイヌの精神的な支えであるのに。宗教が信徒数や形式に則ったものであるかを論ずることはばかばかしいことだ。
これが私の知っていることだ。

昨年、この書評欄にジャック・ヒギンズの『神の最後の土地』というのを紹介した。内容はヒギンズの型にはめたような野蛮な先住民が登場するが、アマゾンの先住民が暮らす南米の熱帯雨林のことを「神の最後の土地」とヒギンズはそう呼んだ。熱帯雨林で暮らす先住民は白人が持ち込む文明や宗教(おせっかいな)、資本主義によって、彼らの豊かな文化を忘れ去られている。特に鉱物資源を盗む白人によって殺され、土地を追われている。
バルガス・リョサ(写真右)は、ペルーの密林で暮らすマチゲンガ族に焦点を当て、「語り部」の言葉を借りて、彼らのものの考え方や世界観を描いた。本書の中で時折、白人社会への批判や資本主義への懐疑的な考え方、先住民が被ってきた歴史、またキリスト教の宣教師が持つ先住民への偏見、文明化されることが先住民にとっての幸福という間違った概念を織り交ぜて描いている。リョサの作品にはペルーのアマゾン地域を舞台とした作品が多くあり、彼が生まれ育ったペルーに対する思いが表れている。
リョサは2010年にノーベル文学賞を受賞し、その他多くの文学賞を獲得している。社会や政治に関して興味を持ち、政治思想は左翼的なものから次第に保守的・自由主義なものに変遷し、1990年には大統領選にも出馬、決選投票でアルベルト・フジモリに敗れている。
「密林の語り部」は主人公と、顔にあざがあることからマスカリータと呼ばれた青年の間の物語である。主人公はマチゲンガの語り部について研究をし、ある時その語り部の正体を知る。マチゲンガは白人から密かに自分たちの文化や考え方、宗教観を守るために語り部の存在を隠し、白人に教えまいとしてきた。その秘密性にこの小説の面白みがあると同時にある驚きがある。
イタリアのフィレンツェから始まるこの小説は心に残る一作となった。かつて私たちが信じてきたものは、それを語り継ぐ者がいなければ、文化や信仰も廃れてしまう。冒頭の言葉は神の怒りを忘れた人間への警鐘と受け止めてもらいたい。

