
<評者:加藤直樹>
毎木曜掲載・第430回(2026.4.9)
●マックス・ブルックス『WORLD WAR Z』(文春文庫)

比喩ではなく、「ゾンビ」の話である。死んだ人びとがよみがえり、群れをなして生者を襲う、あのゾンビである。うつろな表情をしてノロノロと歩き、いつの間にか街を覆い尽くして、ついには文明を崩壊させてしまうという、あれである。
ゾンビについては、ものすごく怖いと感じる人と、ちっとも怖くないと感じる人にはっきりと分かれてしまう。ぼく自身は、子どものころからゾンビが怖くて仕方ない方である。その分、ゾンビについては人一倍、深く考えてきた。そこから出した結論は、「ゾンビとは虚無のメタファーである」というものだ。遠目には滑稽でさえある存在なのに、いつのまにか身動きがとれないほどに周囲を取り囲み、ついにはわが身をむしばむ。まさに「虚無」だ。
これに対して、ある批評家は「ゾンビとは世界の終わりを見たいという欲望である」と定義している。まあ、世界の終わりを描いていないゾンビ映画はないわけで、それも成り立つかもしれない。ただ、ぼくの考えでは、さまざまなもののメタファーと成り得るところにゾンビの面白さがあるので、「世界の終わり」というのも、何かのメタファーかもしれないとも思う。
さて本書は、ぼくの中では「ゾンビ」もののベスト5に入る傑作である。映画ではなく小説でゾンビを描いたのは、恐らく2006年発表の本書が嚆矢だと思うが、凡百のゾンビ映画よりもはるかに面白い。
そこには「虚無」も「世界の終わり」も描かれている。ただし、たいていのゾンビものが描くほどには、社会は完全に崩壊しない。政府と社会、生活は崩壊のふちでかろうじて残っている。
この作品の画期的な仕掛けは、「世界の終わり」を、「世界の終わりが終わって世界が再開したあと」から回想するという設定にある。これにより、虚無が世界を覆っていくという不安を描くのではなく、不安と虚無に抗して生き延びた人々の力強い物語に反転するのである。
小説は、ゾンビの増殖で崩壊しかかった世界が苦闘の末にそれを克服した「世界Z大戦」の10数年後に(ZはZonbieの頭文字)、国連の調査官が各国で聞き取った様々な生存者の証言という体裁をとっている。『戦争は女の顔をしていない』で知られるスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチのスタイルの悪ふざけ交じりのパロディといったところだ。ドタバタだったり、ヒューマン・ドラマだったり、政治家の回想だったりと、スタイルはいろいろだ。全体的にシニカルな笑いを漂わせながら、ふいに心を打つ場面が出てくる。
一貫している軸は二つある。
一つは、虚無と闘った人びとの物語だ。たとえば、「ゾンビに食われるくらいなら」と我が子に手をかけようとする母親から子どもを奪い、ゾンビであふれかえる街に「走りなさい!」と放り出す女性の話がそれだ。母親の心は、子どもが自らの人生を自分の力で生きることを信じられなくなるという虚無に食われていると言えるだろう。そして実は、子どもを救いだす女性は、すでに自分の子をそのように殺してしまい後悔しているらしいことが示唆されている。
その後、子どもは荒涼とした世界を動物のようにたった一人で生き延びて、事態が鎮静化した今は、同じような子どもたちとともに回復センターで保護され、社会復帰に向けてリハビリを受けている。
希望が見えない中で自ら命を絶つ人や、自分がすでにゾンビになったと思い込むことで恐怖と同一化する人も現れるが、そうしたなか、人びとに生きる力を取り戻させるために、わずかに残された撮影機材をかき集めて、それぞれの持ち場で苦闘する人びとを撮影したドキュメンタリー映画を製作する映像作家のエピソードもいい。
もう一つの軸は、それぞれの国が「世界の終わり」とどのように向き合ったかというポリティカル・フィクションである。大真面目なシミュレーションではなく、シニカルなドタバタ劇として描かれているのだが、2026年の私たちには予言のように響く展開が描かれていたりする。
たとえば中国。一種の感染症である「ゾンビ」現象が始まるのは、中国奥地の農村からだった。現場で格闘する医師たちは恐ろしい事態を察知して警告を発するが、政治的動揺を恐れる当局は隠蔽のために医師を「国家反逆罪」で逮捕。こうして、グローバル経済の回路を通じた人の移動に伴い、ゾンビ感染は世界に拡がっていった。
なんだか、つい数年前に聞いた話みたいだが、本書が発表されたのは20年前である。
あるいはロシア。ロシア軍は地方出身の兵士たちを、銃殺を含む懲罰で脅しつけ、使い捨てにしながらゾンビ殲滅に赴かせる。そのなかで生まれた「神聖ロシア帝国」は、ロシア正教の教会と大統領の権力が結合した強権的な政治体制となり、ロシアの大部分をゾンビから解放すると、その「解放」を、まずはベラルーシ、次いでウクライナに及ぼそうとする。これなどは今のロシアそのものだ。
予言的ではないが面白かったのはキューバ。アメリカが崩壊すると、キューバには難民が押し寄せる。海によって安全を守られた島国キューバは、彼らを受け入れて「戦後」経済復興の中心となり、その追い風を受けて民主化が徐々に進むのだが、その先頭に立つのは、なんとカストロその人。著者は、制裁によって封じられた革命キューバのポテンシャルが開花するさまを見たいと思ったのだろう。
社会の変化の描写も面白い。経済が崩壊するなか、それまで高給をもらっていたホワイトカラーの人々は、「コミュニティ自給自足プログラム」の講習を受けて大工や耕作、機械操作などを学ばなくてはいけなくなる。講師は、彼らが昨日までこき使っていた外国人労働者たちだ。
その後、「世界Z大戦」はゾンビの(ほぼ)一掃によって終わり、人類はゾンビの脅威から解放されるが、グローバル経済の崩壊によって物資や医療の不足は続き、人々はとっくに克服されたはずの疾病によって簡単に命を落とすようになっている。ゾンビが残した環境汚染の後始末も続く。それでも、難民船と化した空母の甲板で結成された新しい国連が、世界秩序を調整している。そうした「戦後」を描いて、小説は終わる。
ゾンビはさまざまなもののメタファーとなると書いた。Word War Z=世界Z大戦とは、世界戦争のメタファーなのかもしれない。現実の二度の世界大戦は、大規模な破壊と殺戮であったという意味だけではなく、愚行と混乱が終わったときには、すべての国と、国同士の関係が予想もつかないかたちに変貌していたという意味でも、一つの時代の終わり、「世界の終わり」だった。
2026年の私たちも、すでにそうした意味での「世界の終わり」のなかにいる。それは小説そっくりのコロナ拡大で始まり、奇しくも「Z」マークを掲げたプーチンが国際法原則を正面から破壊し、今では筒井康隆のドタバタコメディのようなトランプが国際法に加えてグローバル経済の破壊に着手している。
ファシズムは世界各国で、ゾンビのように社会を蝕んでいる。韓国では市民が国会に駆けつけてゾンビを食い止めたが、アメリカではワシントンが陥落した。「世界の終わり」は始まったばかりで、どこにたどり着くのかは、まだ見えない。
仮に日本が戦争の当事者にならずに済んだとしても、進行中の「世界の終わり」は、私たちをも予想もしない場所へと押し流すだろう。ちなみに本書で描かれる「戦後」の日本は、アメリカから自立した中規模の軍事力を備える国家となっている。平和主義を捨てたわけではないようだが、「盾の会」なる民族主義団体が精神的支柱となっている。トンチンカンだが、妙に気持ちがざわざわするイメージでもある。
さらにちなみに、この作品は、ブラッド・ピット主演で同じタイトルで映画化されているが、原作とはまったくの別物である。なにしろ、この映画ではゾンビは走るし(走るゾンビはゾンビではない!)、「後から振り返る」構造になっていない。それではただのパニック映画だ。なので映画を観てがっかりした人も、頭を空にして原作を読んでみてほしい。

