<評者:大西赤人> 
 毎木曜掲載・第429回(2026.4.2)

●『眼で食べる日本人:食品サンプルはこうして生まれた』(野瀬泰申 著、旭屋出版、1600円)【文庫版『食品サンプルの誕生』、筑摩書房、800円】

 生まれ持った厄介な体質があったため、幼時の大西は極めて行動の制限された子供だった。近所の同年代と表で遊ぶ機会も乏しく、専ら屋内で過ごしていた。今だったらパソコンやスマホでゲーム三昧《ざんまい》というところかもしれないが、幸か不幸か時代は異なり、また、諸々の事情からテレビもあったりなかったりだったため、必然的に興味は本へ向かうこととなった。もちろん漫画も好きだったし、自然に文字(漢字)の覚えも速かったから、小学校へ上がる頃にはモノによっては文庫本なども読んでいた。

 そして、それ以降の大西の主要な「愛読書」の一つは、『暮しの手帖』だった。インターネット上には同誌の詳細なデータが見つかるけれど、1960(昭和30年)代は年5回、1968年から隔月の発行だったようである。それらが雑然と並んでいた本棚から、新旧のバックナンバーを引っ張り出しては飽きることなく読んでいた。様々な電気製品や飲食物に関する端的な商品テストや遠慮のないレビューが子供心に面白く、また、栄養面から望ましい食事のスタイルを米飯と味噌汁と漬物とはモノクロ、パンとハムエッグと牛乳とがカラーというように視覚的に対比した企画――不確実だが、1960年の第1世紀53号掲載「3度の食事」か?――なども、今でも忘れられない。

 そんな中でも、とりわけ印象的だった記事は、1968年の第1世紀95号で読んだ「食べられない料理」だった。現物は既に手元にないし、ネット上にも当該ページの小さな写真(右)くらいしか見当たらなかったので正確なところは追えないものの、飲食店等のウィンドウに付き物の食品サンプルに関して綴られた内容は実に興味深かった。その時分に用いられていた素材は寒天や蠟などに過ぎなかったのだが、実際の食品を型取りし、巧みに色付けされた蠟を湯の中で扱いながら本物と見紛うサンプルが作り出される様子が楽しく、何度となく手に取って眺め直した。

 それから長い時間が経って2002年に出会った一冊が、本書『眼で食べる日本人』である。筆者の野瀬は、『日本経済新聞』の記者。「まえがき」に「本書は食品サンプルという、日本人が発明した不思議な商品に関する、おそらく初めての本である」と記しているが、先に述べたように子供の頃からこの存在に惹かれていた人間としては、即座に一冊を買い求めたのだった。筆者は、日本に住む者であれば誰もが日常的に眼にするはずの食品サンプルに関して、次のように述べる。

「今回あらためて取材してまず驚いたのは、これだけ巷にあふれた商品を供給しているにもかかわらずサンプルメーカーの業界団体さえなく、従って、全国のメーカー数、市場規模、従業員数などがまったくわからないことだった」(まえがき)

 こうして野瀬は、食品サンプル業界の基礎を築いた岩崎瀧三の歩みをはじめ、この独特な分野の歴史と意義とを追って行く。正直なところ、当時の大西としては、子供時代の『暮しの手帖』の記憶に基づき、寒天や蠟からシリコンや合成樹脂(プラスチックゾル)にツールも進化したという具体的なサンプル作りのありようを改めて詳しく知りたかったので、それらが巻頭巻末の限られた写真ページという構成には幾分落胆した(今回、2017年の文庫版【電子書籍】も購入してみたところ、本文はほぼ同じ、写真部分は多少入れ替えられているという程度であった)。

 ただ、今回見直すと、日本で独自に発展した食品サンプルに関する野瀬の問題意識を看過すべきではあるまい。たしかに我々は、食品サンプルを重要な判断材料とする。たとえばの話、天ぷら盛り合わせ・一人前を買おうとする時、スーパーであれば、少なくともパック入りの実物を見ながら決定することが出来る。一方、〝一見《いちげん》さん〟で店に入ってお品書きを見ただけなら、データはほぼ皆無となる。しかし、表のウィンドウにサンプルが置かれていたら、ほとんどの客はそれを眼にし、「特」と「上」と「並」とがあれば、その差異とコスト・パフォーマンスとを一定程度判断しようとするだろう。しかし、考えてみれば、それはあくまでもサンプルに過ぎず、実物の品質を保証するいわれは全くない(むしろ当然である、サンプルはその店が作ってはいないし、そもそも食べ得る物でもないのだから)。そして我々は、まがい物と知りながらサンプルに基づき期待を抱いて店に入り、時に裏切られる。しかもなお我々は、そんな経験を踏まえつつ、やはり選択に際しては店頭の食品サンプルに大なり小なり依拠することをやめない。

 野瀬は「サンプルを生んだ日本人の心理構造」として、日本人の「ロボット好き」と同様、食品サンプルも「作り物だからつまらないのではなく、よくできた作り物だから面白いのだ」「ロボットの中にさえも〝親しみ〟や〝愛情〟を感じる日本人の融通無碍《ゆうずうむげ》な心理が、サンプルの存在を許し、親しんでいる」というように分析している。たしかにそれらの要素も考えられるけれど、本当に小さな中華料理屋のウィンドウにも何の変哲もない色褪せたラーメンのサンプルが、あるいは開いているのかいないのかというような喫茶店のガラスケースにもどぎつい緑のクリームソーダのサンプルが置かれていることとは十分整合的にはつながらないように思われる。何かを自分自身で確認し、判断する、自らの責任によって選択し、その結果をも引き受けるという意識の欠如が、日本人の食品サンプルへの無防備な依拠を支えていると言ったら、穿《うが》ち過ぎであろうか。