<評者:志真秀弘> 
毎木曜掲載・第420回(2026.1.29)

『映画をつくる 新装版』(山田洋次、大月書店、2025年10月刊、2000円)

 山田洋次は、松竹に助監督として入社してすぐの頃は、監督になれる自信が持てなくて、脚本家として立とうと思ったことがあったという。

 『砂の器』(1974年製作)の脚本を、監督・橋本忍と共同で書いた時のこれはエピソード。松本清張の原作小説を読むと大変面白いが、ストーリーが複雑でとても映画にできるとは山田には思えない。橋本にそう話すと「いやひとつだけいいところがある」。そう言って赤鉛筆で線を引いた箇所が示される。「昭和何年何月何日に島根県亀嵩(かめだけ)の駐在所の署員の日記」にこの親子のことが出てくるが、その後福井を去って、どうやって親子二人が島根県までたどり着いたかは、この親子にしかわからないと小説に書かれている。そこに赤線が引いてあった。「山田君、ここだぞこの映画は」と橋本は言う。ここがモチーフにならないかと言いたいのだ。親子が哀れな身なりで福井県から島根県までの道をとぼとぼ歩くイメージが、聞いた山田のなかにふくらんできた。そこから『砂の器』の脚本は出発した。

 脚本を作る時最も大切なのはモチーフだ、技術、技巧はもちろん大事だが、何よりもモチーフが第一だと山田は強調する。体験する、ふと見る、本を読む、人から聞くなどなんでもいいけれど、そこから何かを深く感じることができるか。「つまりモチーフをいだきうる人間」でありうるかどうかで、脚本は決まる。山田は、「衝動の力」、つまりどうしても作りたい気持ちがあるかどうかだともいう。

 山田は、1年ほど前だったと思うが、テレビに出たとき、みてる人が「笑って笑って笑い死にするような映画が作りたい」と語っていた。

 かれの一家は敗戦後大連から引き上げて宇部にいた。父親が失業していたので食うや食わずで、「しょっちゅうアルバイト」だった。中学時代はもっぱら闇屋をしていた。汽車で宇部から仙崎の漁港へ行き、だしジャコや干しエビを仕入れる。買い出し連中で気の合う仲間ができて、そこにあるとき「寅」のような男が加わる。当時は貨物列車にみんなギュウ詰めで乗っていた。そんな時にその男が面白いことを言ってみんな大笑いする。「ほんとうにつらい、きびしい状況にある人にとって必要なのは笑い」、しかも笑いで励ます人はみんなと同じきびしい状況に身を置いている。「民衆が苦しい時代の芸術家とはそういう存在」ではないかと山田は語る。みるものが笑い死にするような映画をつくりたいとは長く喜劇を作ってきたかれの見果てぬ夢かもしれない。

 柳田國男の「芸術はアミュージングな(楽しませる)ものでなければいけない」の言葉を引用しながら、娯楽映画を低く見ることへの反論を山田は唱えている。また、スタッフと俳優と監督との共同があって、はじめて作品ができることも強調している。映画作りにとどまらない大衆的な文化創造への提言の数々が本書に息づいている。フィルモグラフィ
この本は1978年刊行の国民文庫版に「新装版に寄せて」(山田洋次)、「山田洋次への手引き」(クロード・ルブラン)そしてフィルモグラフィ(1961〜2025)を加えて昨年刊行された。

 昨年くれに公開された『東京タクシー』は山田洋次94歳の最新作で91作目の作品。日本の戦後と今とを考えさせずにはおかない映画である。年をとって葉山の施設に入る老嬢高野すみれ(倍賞千恵子)は、思い出に残る東京のまちを見たいとタクシーに乗る。運転手が、木村拓哉演ずる宇佐美浩二。二人はゆっくりと打ち解けていく。すみれの車内で語る戦後の物語。その中ですみれの恋人との別れが語られる。帰還事業で恋人は北朝鮮に帰る。当時のニュースフィルムが挿入される。わたしは『キューポラのある街』(1962年、浦山桐郎監督)をすぐ思い出した。当時の帰還事業を作品に描いたのは浦山と今回の山田の二人以外にいるだろうか。二人はほとんど同年代で、かたや日活かたや松竹だが、入社は同期と言ってよい。挿入された帰還事業のエピソードはこころざし半ばで逝った浦山桐郎への、山田洋次のオマージュのようにも私には思われた。