
<志真斗美恵 第20回(2026.2.23)・毎月第4月曜掲載>
●日本画廊 山下菊二展 ●杉並区立郷土博物館 丸木位里・丸木俊「原爆の図第10部〈署名〉」


今回紹介するのは、山下菊二展と、丸木位里・丸木俊「原爆の図第10部〈署名〉」。
山下菊二展は、日本画廊(中央区日本橋)で10点が展示されている(無料)。「原爆の図第10部〈署名〉」は、「原爆の図丸木美術館」が改修のため長期休館中で、杉並区立郷土博物館に特別展に貸し出された。
山下菊二(1919-1986)の10点のうち「日本の敵米国の崩壊」(図左)をみて、現代に通じることに驚いた。この作品は、第2次世界大戦のさなかの1943年、美術文化協会第4回展に出品されたもので、戦争画と言ってよい。山下は1939年に召集を受け、台湾、中国と送られ、1942年、満期除隊になった。召集されるまで1年3カ月の間、福沢一郎の絵画研究所にいた。41年、瀧口修造と福沢一郎は検挙される。前衛的な意欲をもつ若い画家たちを集めて福田が結成した美術文化協会も翼賛化への迎合を余儀なくされていった。
「日本の敵米国の崩壊」には、戦争そのものを思わせるものは描かれていない。引き裂かれた中世の甲冑と裸婦、引きちぎれる星条旗、崩れ落ちていくホワイトハウスのような建物、道化の衣装をつけた手が持つHOLLYWOODと書かれた鉄兜と大きく描かれた女優ベティ・デービスの顔。石黒英男が『山下菊二画集』(1988)の「解題」で指摘している通り、絵は、当時の〈物質的欲望の退廃〉といった観念を増幅して見せる。ハリウッド映画の中に「人道」に敵対する〈物質文明の悪徳〉を見て、山下は、シュールレアリスムの手法を使いアメリカを批判している。当時の〈敵〉アメリカを自己崩壊と見た背後には〈日本精神〉があり、山下も〈聖戦イデオロギー〉に立っていたと言えるかもしれない。
だが、今回、この絵が21世紀の現在のアメリカを描いたと想わせることに、私は驚きをもった。〈米国の崩壊〉が、80年以上もたった現代に通じ、この画はトランプのアメリカの姿と重なってみえた。
「葬列(ベトナム)」(1963/図右)で骸骨が足袋と草履をはいて闊歩しているのは、日本のベトナム戦争への加担とそれへの反撃だろうか。山下の表現は、いずれも多義性を持っていることを考えさせられた。

「原爆の図第10部〈署名〉」は、杉並区立郷土博物館の企画展「原水爆禁止署名運動への道」で展示されている。1954年3月、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で第5福竜丸が被爆した。それを契機に、杉並で原水爆禁止署名運動が始まる。その展示の中で「原爆の図第10部〈署名〉」を見ることができる。
丸木位里・丸木俊は、第5福竜丸の被爆を、広島、長崎に次ぐ第3の核被害と捉え、「原爆の図第9部〈焼津〉」を発表した。被爆地広島を描くことから離れた「原爆の図」であり、核に抵抗する民衆の姿を描いた作品であった。翌年には、第10部として〈署名〉が描かれた。右端にねんねこを着て赤ん坊を背負った女性が署名をし、その後ろには、手ぬぐいを姉さんかぶりにして荷物を背負った女性や子供を連れた女性が並んでいる。すわっている老人、三味線を持ち、編み笠を被った女性、カバンを持ったセーラ―服の女学生、国鉄労働者、僧侶も描かれている。平和運動に熱心に取り組む僧侶も見逃していなかった。いったい何人描かれているのだろう。民衆の運動に、丸木夫妻は、希望を見出していたに違いない。
杉並から始まった原水爆禁止の署名運動は、当時の区の人口39万人に対し27万人の署名を集め、全国に広まっていった。翌年の最終署名数は3200万人を超えている。
2年前、早稲田大学の會津八一記念館で見た『平和署名』(1951矢部友衛)では、農家の縁側に座り込み署名する農夫とその様子を見守る人びとの姿が描かれていた。プロレタリア美術家同盟の委員長としてキュビズム風の作品を残していた矢部友は、戦後、この署名運動のなかでこの作品を描いた。私は当時の運動の広がりを痛感させられた。栃木県立美術館でみた鈴木賢二展の木版画「署名」でも、子どもをおぶった女性が眉間にしわを寄せ自分の名を書いている様子が大きく描かれていた。
*山下菊二展=日本画廊(東京メトロ銀座線・東西線日本橋下車B3出口より徒歩1分)3月27日まで・土日祝休み・無料、「原爆の図第10部〈署名〉」=杉並区立郷土博物館(JR高円寺からバス都立和田堀公園下車徒歩5分、永福町下車徒歩15分)4月19日まで・月曜休み 入場料100円


