
志真斗美恵 第19回(2026.1.26)・毎月第4月曜掲載
●「いつもとなりにいるから―日本と韓国、アートの80年」展(横浜美術館)

この展覧会は、横浜美術館と韓国の国立現代美術館との共同で企画された。横浜美術館は、3年の大規模改修を経ての記念展の最後をかざる企画展となる。戦後80年、日韓国交正常化から60年となる昨年12月から開かれている。韓国語のタイトルは「ロードムービー 1945年以降の韓日美術」で、5月からは、韓国の国立現代美術館で開催される。日本でのタイトルは、「いつもとなりにいるから」。1章「はざまに―在日コリアンの視点」、2章「ナムジュン・バイクと日本のアーティスト」、3章「広がった道 日韓国交正常化以後」、4章「あたらしい世代、あたらしい関係」、5章「ともに生きる」。映画、写真などをふくむ160点に及ぶ作品群からなる力のこもった展示であった。
展示は、曺良奎(チョヤンギュ)の作品「密閉せる倉庫」(1957)、「マンホールB」(1958)で始まる。彼は日本統治下の1928年、朝鮮半島に生まれ、師範学校を出て教師になるが、1948年、日本に密航。その年に、済州島4・3事件の弾圧がおきた。東京では、在日コリアンが多く住んでいた江東区の枝川に住み、武蔵野美術大学に入学したものの生活が苦しく中退する。52年から生活に根差した作品で日本の公募展に出品し、マンホール画家と言われた。曺良奎は書いている。
「『倉庫』一連の制作を終り、その過程を整理するなかで、私は、毎日私たちがその上を歩き、だれしもが知っていながらそこに人間的意味を感じ取れない《マンホール》を、資本主義社会の暗黒面の象徴としてモチーフに選んだ。倉庫の壁からマンホールの平面へ、そして直線から曲線への展開を通して、対象を見つめる観念自体がもっと個別化され、肉体化され、人間的情感の組織を通して、心理的にみる側の力動感に働きかけ、状況のなかに息づいている下層労働者の暗さにもっと暗示的に、生への渇望を人物自体の表情によらず、画面の構成を通して働きかけうる画面にしたかった。」(「日本の友よ さようなら 北朝鮮への帰国を前に自作を語る」『美術手帳』1960年10月号)
彼は、1960年10月、北朝鮮へ帰還した。帰還運動に対し当時韓国は反対した。1959年から67年にかけて93000人の人びとが北朝鮮に帰国したと言われる。私は、第何次帰国船が新潟港を出るというニュースをラジオでたびたび聞いていた記憶がある。映画『キューポラのある街』(浦山桐郎監督)でも朝鮮への帰還が印象的に描かれていた。
今回展示された曺智鉉(チョジヒョン)の写真では、猪飼野の商店街にハングルと日本語で帰国を募集する横断幕がはられている。曺良奎は,帰還後、いつどこで亡くなったかは不明だ。
林典子の作品――朝鮮人の夫と「帰国事業」に応じた日本人妻の現在のビデオ――が上映されていた。
最終章に、富山妙子(1921-2021)の「光州のピエタ」(1980)や「南太平洋の海底から」(1985)、「筑豊のアンダーグランド(地の底の恨)」(1984)が展示されている。満洲生まれの富山は、強制連行され炭鉱で働かされ命を落とした朝鮮人、従軍慰安婦たちのことを作品に描いている。
李應魯(1904-1984)、朴仁景(1926-)夫妻の作品――人の集まりによってダイナミズムがうまれる様を描いた李應魯の「群像」(1984)、そして1本の道をハングル文字がとりかこむように描かれる朴仁景「市場に行く道」(1985)に圧倒された。1985年、パリで亡命生活を送る夫妻の日本訪問の時の映画(1985、制作シグロ)も上映されていた。日本訪問には富山妙子の力も大きかった。夫妻は、日本で、在日コリアンの芸術家と交流し、丸木美術館に夫妻も訪ねた。夫の李應魯は、1967年から2年間の獄中生活を強いられても、美術家であることを手放さなかった。醤油をインク代わりにしチリ紙にデッサンをしたり、ご飯粒をため新聞紙と練り合わせ、立体作品を作った。
隣り合わせであるにもかかわらず交流がなかった武蔵野美術大学と朝鮮大学校でそれぞれの学生が協力して、2015年「突然、目の前がひらけて」、2017年「境界を跨ぐと」という展覧会を開いた。数人がかかわったにすぎないが、それは、今回の展示へと連なることを予感させるおおきな試みだったと感じた。
「分断」を見つめ、未来を創るため私たちはどうしたらいいのか。注目すべき展覧会だと思う。(横浜美術館 2026.3.22まで)

