
●第111回 2026年4月11日(毎月10日)
「朝日新聞」夕刊(東京の場合)に「現場へ!」と題された、各5回程度の連載記事がある。或る具体的なテーマに添って、複眼的な視点から問題の現状を捉えようとする。毎回、かなり刺激的で、おもしろい。愛読している。

今年1月下旬には「中国語書店の新風」と題する5回の連載があった(筆者は吉岡桂子編集委員)。20世紀末頃からか池袋駅北口に広がりゆく「チャイナタウン」の中国料理店や、豆板醤や腐乳などを求めて食品店には何度も行っているし、定住する中国人の増加傾向には気づいていた。だが、この連載は、中国語書籍を扱う書店兼文化的拠点が、中国大陸、香港、台湾の出身者を仕掛け人として、東京の各地に広がっている現状を伝えていて、おもしろい。私が若いころから知っている都内の中国語書店と言えば、神保町・すずらん通りの内山書店と東方書店だけだった。中国語の習得に挫折した私は、もっぱら日本語書籍を漁るだけだったが、タイトルからテーマが類推できる中国語の本を手にとっては、目次を見ながら感触を楽しむくらいのことはした。二つの書店から明治大学へ向かう辺りには、孫文や、1910年代後半の日本留学時代の周恩来などが通ったという中国料理店「漢陽楼」(1911年創業)もあって、買ったばかりの中国関連書籍をそこでひも解いて中国の雰囲気に浸るのが好きだった。
因みに、「周恩来『十九歳の東京日記』1918.1.1~12.23」(小学館文庫、矢吹晋編/鈴木博訳、1999年)は、1898年生まれの周恩来の文字通りの青春日記であり、かつ1918年という時代背景の下で書かれたものだから、とてもおもしろい。2022年9月に、改訂新版が「出版社デコ」から出ているようだが、私自身は後者は未見だ。
それから一世紀以上が経ち、21世紀も4分の1が過ぎた現在、状況は決定的に変わった。周恩来も参画した中国革命とその後の80年近い歩みという大状況はここでは論じないが、近々ではとりわけコロナ禍以降、「財産の安全や自由を求めて」中国から日本へ移住する人びとが相次ぎ、2025年6月段階で中国籍の人口は90万人で、3年前より15万人も増えたという。中国大陸には集会や言論の自由がない。1997年にイギリスから返還された香港(それ自体は、植民地主義克服のための必然的な過程だった)は、特に文化活動家にとってはそれまで交流の拠点だったが、50年間は「一国二制度」を保障した中国政府がそれを破り強権的な支配を強めていて、監視と弾圧が厳しい。中台関係の悪化で、大陸と台湾の心ある人びとの行き来も難しい。人口が多い中国の大学受験競争は厳しく、若いひとのなかには学びの場を日本に求める傾向もある――いくつもの理由が重なり合って、「安全な言論空間がある」東京が中国語文化圏の新たな拠点となりつつあるのだという。若い苦学生もいるには違いないが、一定の経済的な基盤を持ち、文化発信と交流をめざす人びとの移動が目立つのだろう。周恩来が来日した頃とは、事情が決定的に違う。
先に触れた神保町・内山書店の前身は、上海にあった。目薬問屋の販売担当だった内山完造は、1917年日本が権益拡大中の中国に派遣されたが、彼はキリスト者でもあったので上海で宗教書籍を販売するために書店を創業した。日本の中国侵略が進行するなか、魯迅や郭沫若などが書店を訪れ、内山との交友を深めたという挿話も忘れ難いものだ。1945年、日本の敗戦で上海の書店は閉じた。だが、つい最近、天津のテレビ局で働いていた一中国人ジャーナリストが内山書店をテーマにドキュメンタリーを製作したことを契機に、「日中交流の場であった書店をもう一度中国で」の思いにかられ、現存する神保町の4代目社長に働きかけ、暖簾分けで2021年に「天津内山書店」が誕生した経緯を、冒頭に触れた記事は伝える。この挿話には胸を打たれた。昨2025年10月、内山完造生誕140周年の記念式典が上海で開かれ、そこに招かれた内山書店4代目社長の言葉が、それを知った時の私の気持ちを代弁している。「国と国との関係はアップダウンしても、民間で良い関係を築ける人たちもいる。(……)完造は日中友好を目的に書店を営んだのではありません。事業を通じて友人が生まれ、人間として関係を育んでいったのだと思う」。
中国と日本の関係が「ダウン」していると言えば、次の2件が思い起こされる。現日本国首相が国会で「(台湾有事に関して)戦艦を使って武力の行使を伴うものであれば、どう考えても存立危機事態になり得る」と答弁したこと(2025年11月7日)。陸上自衛隊3等陸尉(23歳)が刃渡り18センチの包丁を持って在日中国大使館に侵入した。警察は、容疑者の供述として「中国大使に会って日本への強硬発言を控えてほしいと伝えるつもりだった」「意見が受け入れられなかった場合は自決して驚かせようと思った」と発表したが、中国大使館側は「『神がみに代わって』と称して、中国の外交官を殺害すると脅迫した」と述べたと明らかにしたこと(2026年3月24日)――この2件だ。前者に関しては、首相が発言の撤回を頑なに拒否している。後者に関しては、官房長官と防衛相が「遺憾」の意の表明に留めており、特別職の国家公務員の犯罪であることへの政府としての責任感をまったく欠いていることは周知のとおりだ。

これに関わり、去る3月28日、新宿駅近くで行なわれた「新宿平和フェス」での顕著な動きを思い出す。私は現場に行っておらず、翌日のユーチューブで記録映像を見ただけだ。過半は若いと思われる人びとが集まり、短いスローガンを唱和する、いわゆる「コール」を行なっていた。「自衛官テロ謝れ、政府」「自衛官テロ謝れ、高市」「テロの責任、真面目に取れよ」「テロの謝罪、真面目にしろよ」「高市謝れ」「小泉(防衛相)謝れ」「代わりに謝る。中国、ごめん」などのコールが聞こえてきた。多くの人びとがペンライトを振りかざしていた。自衛官の中国大使館侵入事件から4日後のことである。
私は、このコールを行なっていた人びとと比較するなら、おそらく半世紀か60年程度の年齢的な差があるだろう。私には「代わりに謝る。中国、ごめん」という言葉も発想もない。こんな政府/首相/防衛相を持つ恥ずかしさは、「有権者」のひとりとして共有はするが、こんな直截な言葉をリズムに乗って唱和し、ペンライトを振る感性と身体を、私は持ってはいない。この種の謝罪は、もっと重層的な思考過程を経て、しかるべき立場の人間が、はるかに「重々しく」言うべき言葉なのではないか、とどうしても思われるからだ。やはり、古い人間なのかね。
違和感を持ちながら、こんな風に言い切ってしまう若者に、不快な感じは持たなかった。むしろ来るべき「未来」を感じた。マスメディアでも決して重大事件として扱われてはいない自衛官の中国大使館侵入事件を、ここまでの切実感をもって受け止め、正式な謝罪をあくまでも拒む日本政府の在り方を、身代わりしてでも「自己批判」に転化させて「謝罪」するその姿勢に、今の時代を生きる若者独自の「主体性」を感じ取った。だから、軽薄さに過ぎるノリだ、集団的な自己陶酔だ、との批評は封印する。
異論も反論もあり得るだろう。私自身もまだ戸惑い、揺れている。だが、上に見たように、彼方(中国)でも、此方(日本)でも、若い世代の胎動が始まっているのだ。究極的には、いつの時代だって、人類の長い歴史の中で一時的な政権の座にあるのでしかない人物が「政府」の名で体現する「国」と「国」の諍いに目を奪われるべきではない。時の政府からも、永続的な権力からも、意識的に離れた地点で続けられてきた/今後も続けられるであろう民際交流にこそ、譲ることのできない私たちの根拠地があるのだ。
「代わりに謝る。中国、ごめん」の声に共感するにせよ、批判的に捉えるにせよ、私にとっては思いがけない言葉遣いで、問題が提起された。活発な議論が起これば、よい。


