
●第109回 2026年2月15日(毎月10日)
前回も論じた米軍のベネズエラに対する軍事攻撃と大統領夫妻拉致問題をめぐって、どうしても、併せて触れておきたいことがある。朝日新聞2026年1月5日付け朝刊に「ニューヨーク・タイムズから」との但し書きで、「拘束されたマドゥロ大統領の移送ルート」と題する地図が載っている。そこには、以下のキャプションが付されている。(「 」内は原文通り。その他の文言は太田による補足)。

「①カラカスで拘束」→ベネズエラ沖のカリブ海では25年9月以降、麻薬船の取り締りと称して、乗組員の殺害を含めた一方的な攻撃を任務とする米南方軍が軍事活動を行なっており、その「②米国の舶へ移送」→キューバの「③グアンタナモ米海軍基地に連行」→「④ニューヨークまで空路で移送」
ここでの問題は、③がいう、キューバの「グアンタナモ米海軍基地に連行」が事実だとして、それが何を意味するか、ということに絞って考えてみる。この間わたしがベネズエラ情勢について行なった講演でも執筆した文章でも、この問題にはできるだけ触れるようにしているが、その歴史的な経緯を知るひとは、あまり多くはない。遠く遥かに離れた地域(しかも、キューバは小国)のことゆえ、止むを得ないことだとは思う。だが、この問題は、大国が小国を相手にする二国間外交の中で、自らの政治的・軍事的優位性を最大限に利用して無理やり相手国に受け入れを強制することで生じた事態の典型的な一例であることに留意したい。〈植民地なき〉21世紀の現在にあっても、植民地主義が新たな装いで継続していることを明かした今回の米軍のベネズエラ攻撃は、世界中で実現されるべき対等・平等な国家間関係という原則を根本的に揺るがせているからだ。(写真=グアンタナモ米海軍基地の収容施設)
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発端は19世紀末にまで遡る。スペインによる植民地支配が3世紀もの間続いてきたラテンアメリカ地域では、激しい独立闘争を経て多くの地域が19世紀前半に独立を実現した。それには遅れたキューバでも、19世紀後半には独立運動が開始された。1898年、キューバは、遠く離れたアジアのフィリピンともども、スペインからの独立が叶う寸前にまできていた。だが、1776年の「アメリカ独立宣言」の起草者であったトマス・ジェファーソンが、1801年に第3代大統領になって以降たびたび言及していたように、米国の歴代支配層は独立直後からフロリダ半島の目の先にある「キューバ占領・併合」の意図を隠すことはなかった。キューバとフィリピンがスペインから独立すれば、米国はこれと対等な国家として相対さなければならなくなり、米国がカリブ海およびアジアへの進出を図るうえでの障害物になり得る。スペイン軍の動きを牽制するために、米国は艦隊をキューバに派遣し、封鎖と上陸を開始した。さらに軍事的陰謀を自作自演し、スペインに宣戦布告した。キューバおよびフィリピンの独立戦争は、米西(アメリカ・スペイン)戦争へとその性格を変えた。数か月後、スペイン軍は敗北した。講和条約の交渉と締結は、キューバとフィリピンの独立闘争の担い手を無視し、米国とスペインによって調印された。スペインが宗主権を放棄したフィリピン、グアム、プエルトリコは米国に「譲渡」された。形式的には独立を認められたキューバは米国の軍事占領下に置かれた。そこでは、下からの独立を目指す諸勢力は解体され、革命党も臨時政府も消滅させられた。1899年1月1日、講和条約に基づいて、キューバに対する宗主権を失ったスペインに代わって、米国がその座に就いた。首都ハバナの象徴地点・モロ城からスペインの国旗が引き降ろされ、米国国旗が掲げられた。米占領軍の後を追うように、米国から民間大企業、銀行家、大土地所有者などがキューバに乗り込んできた。
1901年、キューバ制憲議会は新憲法を可決した。米国議会はすぐさま、キューバ憲法に「付加されるべき」条項を採択した。いくつもの内政干渉的な項目の中でも極めつきは、「米国がキューバの独立を維持し、その人民を保護できるようにするために、また米国自身の防衛のために、キューバ政府は、米国大統領との間に合意をみた特定の地点において、貯炭地または海軍基地の設置に必要な土地を米国に売却あるいは貸与する」と規定した第7条である。キューバ議会は抵抗した。各地で「貯炭地ノー!」と叫ぶデモが繰り広げられた。米陸軍長官は「(キューバ議会での)論議を招いている諸条項を強制する米国の権利は、すでに75年このかたアメリカと全ヨーロッパに対して宣言されたものであって、ワシントン政府は、この条項を放棄することで自国の安全を危うくするつもりはない」と述べた。「75年このかた」とは、1823年当時の米大統領が発したモンロー教義のことを指すのだろう。米国議会の議員からは、受け入れなければ全島を占領するぞ、との脅しが公然となされた。
1902年5月、米国の軍事占領は終わった。だが、翌03年2月、キューバ東部にあるグアンタナモ湾の117平方キロの土地は「米国が必要とする限り」海軍基地として使用できることとなった。この基地「使用権」は両国の合意で変更され得るが、裏を返せば、米国が返還に反対する限りは無期限に使用されるということでしかない。
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1959年に成就したキューバ革命以降、キューバ政府は米国に対して何度もグアンタナモの土地の返還を要求しているが、後者は頑として応じない。現在は2026年、つまり革命が成就して66年を経た今なお、グアンタナモは米海軍基地のままなのだ。それはすでに123年の歴史(1903年~2026年)を持つということになる。
ここから、ふたつの問題を引き出しておきたい。米海軍がグアンタナモ基地から撤退する可能性は歴史上なかったのか、という問いだ。あっただろう、私は思う。1962年10月、いわゆる「キューバ、ミサイル危機」の時だ。ソ連がキューバの一地点に、米国に向けたミサイル基地を設置したのだが、それを米国が察知して撤去を迫り、「核戦争の危機」寸前まで事態が緊迫した時だ。結局、それは米ソ首脳(米国はケネディ大統領、ソ連はフルシチョフ首相の時だ)がキューバの頭越しに交渉を行ない、決着をみた。
フィデル・カストロの回想によれば、「ミサイル危機」解決のために、キューバ政府が提起しようとしていた要求は以下のことだった。「我々は5点要求した。キューバに対する海賊行為、侵略、テロリズムの停止が含まれていた。この要求はその後、何十年も維持されてきた。経済封鎖停止、米国が一方的に占領してきたグアンタナモ海軍基地の返還もずっと要求し続けてきた。これらの要求はすべて、あの危機のさなかに叶っていたはずだった。」(イグナシオ・ラモネ『フィデル・カストロ――みずから語る革命家人生』上(岩波書店、伊高浩昭訳、2011年)。
だが現実には、繰り返し言うが、決着は米ソ首脳間だけの秘密交渉を通して実現した。キューバ政府が要求しようとしていた項目は、その代表が交渉の場にいないのだから、話題にすらならなかった。米国の罪は、もちろん、大きい。同時に、「味方のような貌つき」をしたソ連政府の大国主義も堪え難いほどにひどいものだった。キューバは、19世紀末の対スペイン独立戦争の決着をつける場でも米西2大国に無視されて交渉の場に居合わせず、その後強制された米軍基地を撤廃すべき20世紀半ばの絶好機にも米ソ2大国のボス交渉の場からはじき出されて、自らの意思を表明する場を奪われたのだ。
その結果、米国がグアンタナモ基地の「使用権」を得て100年が経た2002年1月には、米空軍C17輸送機が、アフガニスタンのカンダハールを離陸し、遥かキューバのグアンタナモ基地に着陸するという航空路が突然に開かれた。2001年の「9・11」同時多発攻撃を受けた米国は、「対テロ戦争」の名目でアフガニスタンに対する一方的な攻撃をすぐさま開始したが、その作戦中に捕らえたタリバーン兵やアルカイーダのメンバーをグアンタナモ米軍基地に直接運んだのだ。そこで、これらのイスラームの信仰者に対してどれほどの精神的・肉体的な虐待や拷問が行なわれたかについては、当時少なからず報道されたとおりだ。
そして今回は、「ニューヨーク・タイムズ」が報道したところに基づけば、米軍はマドゥロの移送に際して、わざわざグアンタナモ基地を経由地として使ったのだ。チャベス政権とマドゥロ政権が採用してきたキューバとの共同の在り方(それは経済的な意味合いでは、弱き国同士が、市場原理を離れた地点で確立しようとする連帯経済の具体例だったのだ)を念頭に入れての、驕り高ぶった国の最低の悪意の表現だといえよう。
もうひとつ、ここから引き出しておきたいこと。それは、キューバに対する米国のこれら一連の対し方には既視感があるということだ。他ならぬ私たちの足元、明治維新以降の日本の対朝鮮政策の過程を省みればよい。朝鮮王朝末期の混乱につけ入りながら、維新政府が江華島沖に軍艦・雲揚号を派遣したのは、維新から7年目の1875年だった。その後の経緯は、1898年米国軍がハバナ沖でスペイン軍に対して行った謀略と瓜二つだ。翌年には、さらに多くの艦隊を送り込んだうえで、朝鮮に関税自主権どころか関税そのものすら認めない不平等条約(日朝修好条約あるいは江華条約)を強制した。1894年、南西部・全羅道で、「人を殺さず、物をとらない」「世を救い、民を安らかにする」「権力者を打ち倒して政治を改める」ために蜂起した農民軍は「日本と外国勢力を駆逐し、道理をはっきりさせる」ことを誓っていた。農民軍は勝利したが、これを嫌った日本が朝鮮出兵を行なったことから、朝鮮を戦場にした日清戦争へと至ることになった。
それ以降も、日本公使が計画し、日本軍に守られた「壮士」が実行した王宮に侵入しての閔妃暗殺(1895年)、日本軍の朝鮮・仁川上陸をきっかけに始まる日露戦争(1904年)、日露間で中立を望む韓国政府に日本が自らの陣営に引き入れるための「日韓議定書」の押し付け(1904年)、日本が韓国を「指導」し「保護」する「権利」を得た日露ポーツマス条約と、韓国外交が日本から送り込まれる統監の手に握られることを規定した日韓乙巳保護条約の締結(1905年)――この年表にはさらにいくつもの項目を付け加えて、1910年の日韓併合へ至る過程をたどり直すことが可能だ。
自作自演の軍事的陰謀を駆使して軍事的介入の道筋をつくる、大国同士の戦争の講和条約では、間に挟まれた小国の頭越しに、その国の内政に干渉するような項目を規定する――大国と小国の関係性に関わっては、近現代の人類史は、こんな事例に事欠かない。ベネズエラのマドゥロ大統領夫妻の拉致・移送ルートから、この事実をも引き出して、胸に収めておきたい。
【*1897年、朝鮮国王は国名を「大韓帝国」と改めているので、本稿における「朝鮮」と「韓国」の使用区分は、この年を境にしている。】

