毎木曜掲載・第416回(2025/12/25)

日本は米国のミサイル基地に!?

『従属の代償 日米軍事一体化の真実』(布施祐仁 著、講談社現代新書)評者:志水博子

 そもそも私は「軍事」が苦手だ。関心がない。しかし、ここ数年のニュースに、そうも言っていられない気がしている。このままいけばお国の戦争に私たちは再び巻き込まれてしまうのではないか。憲法九条がことごとく蔑ろにされ傷つけられている現実に、これは日本の安全保障のあり方についてちゃんと考えてみなければと思っていた。

 本年6月、京都府精華町にある祝園(ほうその)で本書の著者である布施祐仁さんの話を聴く機会があった。その地では、安保三文書に沿って陸上自衛隊祝園分屯地に弾薬庫が増設されようとしていた。地元の住民が中心となり「京都・祝園ミサイル弾薬庫問題を考える住民ネットワーク」が結成され、総会での記念講演として話されたのが布施祐仁さんだった。弾薬庫増設の狙いと危険性について、南西諸島のミサイル配備から米中の対立、それと日本の関連性を解きほぐすようなお話だった。

 時折目に触れるニュースでは、自衛隊と米軍の関係や、その組織改編にきな臭い物を感じることはあったが、断片的であり、いったい何が起こっているのかよくわからないまま不安ばかりが大きくなっていった。そこで手に取ったのが本書である。タイトルが強烈であった。“従属の代償”―それを支払うのは誰か。

 著者(写真右)はいう、「安全保障を専門とするジャーナリストとして20年以上活動してきた中で、今ほど戦争の危機を感じる時はない」と。

 もうひとつ気にかかっていることがある。“台湾有事”―この言葉が盛んに登場するようになったのはいつ頃からだろうか。おそらくここ数年のことではないか。マスメディアの影響もあり、今、この国に住む人々は、“もしも攻めて来られたら・・”と考える。憲法九条は理念として素晴らしいが、本当にそれでやっていけるのかと。やはりここは米国の“核の傘”に頼るしかないのではないかと。だが、本当にそうなのか。私たちにはその道しかないのか。そのことについてもちゃんと考えおきたかった。

 つい先日も、高市首相が衆議院予算委員会で、台湾の情勢が日本の望まない状況になった場合に「存立危機事態」にあたる可能性があると明言したことでとんでもない事態が引き起こされている。たしかに2015年に制定された安全保障関連法により、政府が「存立危機事態」と判断した場合は、集団的自衛権の行使として自衛隊が他国に対して武力行使を行うことができる(これはこれで問題だと思うが、ひとまず置く)。高市首相は、歴代総理大臣の政府見解と異なり、中国による台湾の海上封鎖を巡って「戦艦を使って武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になり得るケースだ」と答弁した。つまり現役総理が“自衛隊を出す”イコール参戦するといったわけだからとんでもない話だ。高市総理の言動は、本書で触れられている戦後安全保障政策の大転換の危険性、すなわち米国への従属と終わりなき軍拡を象徴的に表しているかのように思える。

 さて、本書は、まず南西諸島のミサイル配備の話から始まる。自衛隊基地も米軍基地もない軍事とは無縁のリゾートの島であった石垣島に、2023年、「我が国防衛の最前線」として陸上自衛隊駐屯地が開設された。“台湾有事”のゆえである。「ミサイル要塞基地」と著者は表現する。“南西の壁”―南西諸島のミサイルの壁で中国の侵攻をブロックする意味だそうだが、当初は南西諸島の防衛が目的であったはずだが、その“南西の壁”は今や米国の軍事戦略の巨大な渦の中で“台湾有事”において米軍が優位に戦うための「盾」に変質してしまったと著者は説く。恐ろしいと思ったのは、著者の予想通り、アメリカ陸軍の最新中距離ミサイルシステム「タイフォン(Typhon)」は、本年9月、日米合同演習「レゾリュート・ドラゴン2025」の一環として初めて岩国海兵隊航空基地で行われた。そして、日本政府も中国本土を攻撃可能な地上発射型中距離ミサイルの開発に乗り出す。2022年安保三文書で、これを反撃能力と表すことによって敵基地攻撃能力として用いる方針は決定済みだ。防衛省は本年8月に熊本県健軍駐屯地に「12式地対艦誘導弾能力向上型ミサイル」を配備する計画を公表している。これも著者の予想通りである。

 後半のところでは、1962年10月に起きたキューバ危機に触れ、「今後、米国が中距離ミサイルを日本などに配備すれば、キューバ危機と同じように対抗措置の応酬で米中の軍事的緊張が極度に高まり、核戦争という破滅的な事態を招く恐れは十分にある」と著者は説く。

 さて、そもそも憲法違反の専守防衛の域を超える敵基地攻撃能力を有するミサイルをどのようにして配置していくことになったか。米中ミサイル合戦に日本がどのように組み込まれていったか。米国に従属する日本の在り方が具に著されている。米軍指揮下に組み込まれる自衛隊のあり方はニュースでも時折目にするが、本書では歴代自民党政権の公的な場面でのアピールの分析や著者が情報公開で手に入れた資料によって、より鮮明に伝わってくる。特に「統合防空ミサイル防衛」(IAMD:Integrated Air and Missile Defence)能力の構築については、よほど「軍事」の問題に関心がない限り、つい見過ごしてしまいがちではないだろうか。日本はここでも安保三文書でIAMDの推進を正式に決定している。すなわち「国家防衛戦略」には、米国のIAMDと同様、ミサイルの迎撃と敵基地攻撃をセットとした構想が記載されている。最近、米軍と自衛隊による日米合同演習が盛んに行われるわけだ。

 秘密裏に行われていた日米合同協議、指揮権密約等々、米国は戦後一貫して自国の都合で日本の「軍事」を操っていた。そして日本の政権は唯唯諾々とそれに従ってきた。その代償を受けるのは私たちだ。

 本書では、日本に核が配備される可能性についても分析されている。著者が指摘する「米国が最も守ろうとしているのは、米国自身のグローバルな国益とその基盤となってきた覇権である」については誰も異論がないだろう。そこに中国の台頭である。バイデン政権(当時)の国家安全保障戦略は、中国との覇権争いに勝つために経済力、外交力、軍事力、技術力などあらゆる分野で中国に対する優位性を確保し続けるとしている。そして、「核抑止は依然として米国の最優先課題」であると。

 核兵器には、戦略核兵器とは異なる地域紛争での限定的な核使用を想定した戦域核兵器があるそうだ。戦略核兵器を使えば世界は終わる。その扱いには慎重になるだろう。しかし、それに反して戦域核兵器が局所で使われる可能性は高い。では局所とはどこか。俄然、私たちに危険性は近づいてくる。著者の見解は「今後、米国政府が中国に対抗して戦域核兵器をアジア太平洋地域で再び運用する可能性はおおいにある」というものだ。「東アジアでは今後、米中を軸として周辺国も巻き込み、ミサイルと核兵器の軍拡競争が過熱化する事態が予測される」ともいう。その時、被曝被害を受けるのは米国ではなく沖縄をはじめ日本列島も含む東アジアの人々なのではないか。

 また、米軍だけではなく日本政府が核武装する可能性もなくはない。実際、日本政府の中で核武装のオプションが検討されたこともあるという。原発大国の日本は現在4600キログラム近いプルトニウムを保有している。日本は核兵器を製造できる能力を潜在的に保有している。

 実は、1958年に起きた「第二次台湾海峡危機」において、米軍は中国本土への核攻撃を計画していたとある。アイゼンハワー大統領(当時)が許可しなかったため、行われなかった。もしも、その時日本に米国の戦域核兵器が前方配備・展開していれば、中国の戦域核兵器の攻撃を受けるリスクが日本に降りかかったであろう。最終判断が大統領というのも怖い。最近も、総理大臣補佐官が記者団の取材に対し「日本は核保有すべきだ」と語ったと報道があった。高市首相は更迭にすら動いていない。

 本書は、日米同盟は最初から米国の核戦略に深く組み込まれていたと、これまでの歴史を振り返る。なにしろアジアで最初に米国の核兵器が配備された場所は沖縄である。そこから虚偽答弁、事前協議制、市民の知らないところで日本政府は米国に従属し、国民に対しては嘘も平気でつき通す。政府は信用できない。私たちに残された道は米中避戦の道しかないわけだ。その時参考になるのが米中対立の克服を目指すASEAN(東南アジア諸国連合)のあり方だという。終章になり希望が見えてきた。このまま、お国にしたがって従属の代償を支払うのは何としても避けたい。

 最後に著者の言葉を紹介しておこう。
「日本は『専守防衛』と『非核三原則』を貫き、保持する軍事力は領土・領空・領海の防衛に必要な最小限のレベルにとどめた上で、ASEANと連携して米中対立を克服し、平和共存の理念に基づく包摂的な国際秩序を形成する外交に全力を尽くす──これが日本の進むべき道だと私は確信しています」

 現代人必読の安全保障論といえる。