
<評者:大西赤人>
毎木曜掲載・第438回(2026.6.4)
『天皇への敗北-シリーズ哲学講話-』國分功一郎 著、新潮社、900円)

たまたま大西は十代の頃から文章を世間に発表していたために、さしずめ若い世代を代表する恰好で、あれこれの社会的出来事に関して新聞や雑誌から感想ないし意見を求められる機会が時おりあった。おおよそそれは1970年代中期――既に約半世紀前!――にあたり、昭和天皇が七十代半ば、そして皇太子(現・上皇)はようやく40代に差しかかる時期だったろう。年老いながらも数多くの公務をこなしつづける昭和天皇については「譲位」の可能性が語られる一方、噂話の域を出ないレベルではあったものの、〝息子(皇太子)がアテにならないのでお父さんが頑張らざるを得ないのだ〟というような観測も結構流れていたと思う。
その頃、筆者は、某有名月刊総合誌から「皇太子殿下を見たことがありますか」と題する書面アンケートを受けた。常日頃、父親から天皇制に関する批判は散々聞かされていたので、自分なりに考えて穏やかながらも否定的な回答を記し、最後に〝それほど面倒な存在なのであれば、天皇をなくしてしまったほうが良いのではないだろうか〟という具合にヤンワリと書き添えて返送した。今、雑誌の現物は確認できないけれども、追って届いた十数名の回答が並んだ誌面では、最後の一節は綺麗に削られていた。捉えようによっては「言論弾圧!?」ともなりかねない一幕だったけれど、まあ、編集部としては若輩者がいきっていると受け止め、言わば温情的に気を配ったのかなとも感じ、改めて事情を尋ねることもしなかった。。
当然ながら昭和時代には、1945年の悲惨な敗戦へとつながる「戦前」の日本を体現した(文字通りの)象徴である昭和天皇=天皇制に向けては、左右両陣営からの毀誉褒貶が盛んに飛び交っていた。しかし、いわゆる〝御病状〟報道とともに「昭和」が終ると、新たな「平成」の天皇、そして新たな皇太子の登場は、いかにも時代が変わった空気を醸し出した。「開かれた皇室」という表現が用いられ、皇族は国民からかけ離れた存在ではなく、一般の日本人と変わらないかのような親近感が漂った。そして、歴史的な「譲位」の実現によって「令和」へと移る中で、奇妙な現象が発生した。従来、天皇とは基本的に右派・保守派が仰ぎ見る絶対の旗印であったにもかかわらず、とりわけ右傾化を強め逆コース的改憲を露骨に狙った安倍晋三政権あたりから、むしろ天皇は左派・革新派にとって、しばしば拠り所とさえ化しつつある。本書の國分は、この一種逆転した状況を指して、立憲主義・民主主義における「天皇への敗北」と形容している。
たしかに、1945年までの日本のありようを重大な過誤と国民が自覚し、個人を尊重する民主主義とは根本的に相容れない天皇の存在を根本原因と見做すならば、再出発に向けての根拠・規範となる日本国憲法においては、天皇制の廃止が実現されて然るべきはずだった。ところが、いかにも日本らしい曖昧さに米国等の思惑も絡まり、國分が記す美濃部達吉のような例外を除けば、憲法学者たちを含めて厳密な対処を行なわなかった。國分は、1995年に発表されて大きな論議を呼んだ加藤典洋の『敗戦後論』を柱に柄谷行人や江藤淳の考察を引きながら、国民に求められる成熟=主体性を考える。
「柄谷は象徴としての天皇という日本国憲法の規定は決して戦後に突如現れたものではなく、明治維新までの天皇のあり方に依拠していると指摘している。天皇によって平和主義が守られる構造は明治以前の徳川体制のあり方そのものだというのである」
今や天皇は、民主主義を担い、それを守る貴重な存在であるかのようだ。高市早苗政権が反動路線を一層あからさまに推進しようとする中、粗雑なSNSなどによって煽動される〝世論〟においては、天皇一族は左翼=パヨク=反日勢力としてさえ扱われている。左右の立場が入れ替わったごとき皮肉な「ねじれ」現象を何と表現すれば良いのか、「ミイラ取りがミイラになる」とのことわざを想い起こすけれども、どこか違っても見える。
大西は本書を予備知識なく読み進めていたので、後半に至って國分が父・大西巨人を訪ねたエピソードや巨人の憲法関連言説が何度か登場するので――國分との交流自体についてはもちろん知っていたけれども――いささか不意をつかれた。國分は、巨人が『敗戦後論』を全面的に批判したにも関わらず、「加藤の『心持ち』は、わからなくはない、あるいは、むしろ、よくわかる」と書いていたことにこだわりを示す。この部分を簡単に論じることは到底出来ないが、あえて言えば、左翼(パヨク?)の権化と目されるであろう巨人は、テレビで大相撲中継を観る時、千秋楽に『君が代』が始まると必ず一旦消す(消させる)ような人間だったけれども、国旗=日の丸は決して嫌っていなかったこと、大西から見ると「愛国左翼」とでも称したい人間であったことだけ記しておこう。
終盤に國分は、公認心理師・臨床心理士である信田さよ子の『家族と国家は共謀する──サバイバルからレジスタンスへ』(本欄第216回)に触れつつ、戦争とも通じる加害者と被害者との関係性を論じる。
「まず暴力を暴力としっかりと名指す必要がある。そして、被害者は自分が被害者であると理解できていないことがありうるから、被害者の被害者性をしっかりと構築する必要がある。更に、加害者は自分が加害者であると分かっていないどころか、被害者であると自己認識している場合もある」
つい先頃のプロ野球監督による家庭内暴力の一件なども連想され、リアルな言及である。

