永田浩三(ジャーナリスト・武蔵大学名誉教授)





 是枝裕和監督の『箱の中の羊』。2018年『万引き家族』でカンヌ映画祭・パルム・ドールを受賞し、今年のカンヌ映画祭でもレッド・カーペットを主演の綾瀬はるかさん、千鳥・大悟さんとともに歩いた。

 映画のテーマは現代社会の喫緊の課題であるAI。綾瀬はるかさんが演じる母親・音々(おとね)は建築家。父の大悟さんは工務店の二代目・健介。そこに2年前7歳で亡くなった一人息子の翔(かける)のヒューマノイドがやってくる。翔を演じる栞木里夢さんの透明感、清潔感といったらない。

 この映画のいちばんの名シーンは、江ノ電が大好きだった翔が、全部の駅名を健介の前で暗唱してみせるところ。AIなのだから記憶を再現することに何の不思議もなく、もっとも得意なことなのだが、健介にかけがえのない思い出がよみがえり涙し、翔との距離が一挙に縮まっていく。人間にとってなにより尊いものは、同じ時間と空間を共有したたわいもない記憶だと気づかされる。

 一方AIが苦手なのは、想像すること、飛躍すること。そのことをあらわすのがサン・テグジュペリの『星の王子さま』のなかに出てくる「箱の中の羊」。翔には、この絵本の世界がよく理解できないのだった。意外にも映画はこのことを深く掘り下げてはくれない。そうではなくて、注文住宅の設計に格闘する音々やそれに影響を受けて、家づくりに興味を持つ翔の姿にシフトしていく。音々や健介が扱う木の世界は、樹木が伐採された後も、材木として家の中に生き続ける。死んだ後も永遠の命を保つことができるのだ。

 監督のこうした着想は素晴らしい。しかし、それを脚本にし、舞台を確定し、役者さんを動かしていくにあたってのパワーが弱い気がした。セリフはこれでいいのか、役者さんはこれで納得したのか、カメラマンはOKを出したのか。随所に不安が漂うのだった。是枝さんは最後までずっと迷っていたのではないか。そういえばレッド・カーペットを歩く姿もどこか不安気なのだった。

 是枝さんの作品は、1995年の『幻の光』以来ずっと応援してきたつもりだ。見識の高さは業界屈指。わたしのドキュメンタリー制作の師でもある工藤敏樹作品をもとに、映画祭で二人で語り合ったこともある。

 今回の映画『箱の中の羊』の構想はよかったと思う。だが、それを形にしていくことがいかに難しいか。プロデューサーはどこまで関与すべきだったのか。脚本の最終稿(特に中盤以降の展開やそれぞれの役の輪郭)はあれでよかったのか。映画づくりという世界がいかに苦労に満ち溢れているかを学ぶには、ものすごく勉強になり、考えさせられる作品だと思う。その意味で映画を志す若い人たちにとって必見の映画だ。

★『箱の中の羊』2026年製作/125分/日本
配給:東宝、ギャガ
劇場公開日:2026年5月29日
公式サイト⇒https://gaga.ne.jp/hakononakanohitsuji/